ブラックホール戦争ーースティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い
書籍情報
- 著 者:
- レオナルド・サスキンド
- 訳 者:
- 林田陽子
- 出版社:
- 日経BP社
- 出版年:
- 2009年10月
本書は、ブラックホールとは何か、ブラックホールの蒸発とは何か、情報とは何か、エントロピーとは何かを丁寧に解説し、また、一般相対性理論、量子力学、ひも理論のエッセンスを述べ、「ブラックホールに吸い込まれる情報の運命に関する20年以上の知的戦争」を語り尽くした一冊
「物理学のもっとも大きな進歩は、深く信頼されている原理同士の衝突を思考実験によって解明することで達成されてきた」という。
「ブラックホール戦争」も、深く信頼されている物理学原理同士の衝突だった。著者はこう記す。「それはアイデアの戦争、すなわち基本原理の間の戦争だった。量子力学の原理と一般相対性理論の原理は常に戦っているように思われた。それらが共存できるかどうかわからなかった」と。
「ブラックホール戦争は純粋に科学的な論争だった」。「初めは関心を持つ人はほとんどいなかった。ほぼ20年にわたって、この議論はほとんどが目立つこともなく交わされた」。知的な対立の一方の陣営にいるのは、著者レオナルド・サスキンドと「オランダの偉大な物理学者」ゲラルド・トフーフト。二人は、「物理学の土台を破壊しない限り、量子力学の法則を破るのは不可能だと感じている量子物理学者だ」。そして、もう一方の陣営にいるのが、「スティーヴン・ホーキングと相対論物理学者の小さなグループ」。「ホーキングはアインシュタインの等価原理を信頼する一般相対論の学者」だ。
1983年、ヴェルナー・エルハルトの屋根裏で、「ブラックホール戦争」は勃発した。だが、スティーヴン・ホーキングの攻撃が始まったのは、「実はもっと前の1976年だった」。「この攻撃は当時ほとんど見過ごされたけれども、それは物理学のもっとも信頼されている原理のひとつを真正面から攻撃したものだった。つまり情報は決して失われないという法則、簡単に言えば情報の保存である」。(「情報は決して失われないという法則」「情報の保存」に傍点)
ホーキングの主張を、著者はつぎのように記した。「スティーヴンの主張はとても信じられなかった。[以下すべてに傍点]ブラックホールが蒸発するとき、捕らえられた情報のビットは宇宙から消える。情報はかき混ぜられるのではない。情報は不可逆的に、永久に、消されてしまうというのだ」
トフーフトは、「S行列を武器にしてブラックホール戦争を戦った」。「S行列のもっとも重要な性質のひとつは可逆性である」という(「可逆性」に傍点)。「ここで可逆性について考えてみよう」と著者は述べて、つぎのように説明する。
「S行列には「逆行列が存在する」という性質がある。逆が存在するということは、情報が決して失われないという法則の数学的な表現である。S行列の逆行列は、S行列が表す変化を元に戻す。……略……。S行列の逆行列は、すべてを逆向きに進める。出力から入力へと逆戻りするのである。こう考えてもよい。ちょうど映画を逆まわしにするように、最終的に放出されたあらゆる粒子の運動を逆向きにして、系を逆向きに追跡するのだ。……略……S行列は過去から未来を予測するだけでなく、未来から過去を復元できる。S行列はある規則を定めていて、その規則の詳細があれば情報は決して失われない」
著者サスキンドは、「サンタバーバラの戦い」で、「ブラックホールの相補性」を論じた。著者は、こう綴る。
「私の講演はその日遅くの予定だった。シャーロック・ホームズがワトソンに向かって「不可能なことをすべてとり除いたら、残ったものが何であっても、どんなに起こりそうもないことでも、それが真実なんだ」と語ったときのような気持ちだった。講演のために立ち上がったとき、私はひとつの可能性以外すべて取り除かれたと思った。その可能性をちょっと考えてみると、とても起こり得ないような気がするので、ばかげた可能性に思えた。だが、ブラックホールの相補性がたとえばかげているように見えてたとしても、それは正しいはずだった。ほかの選択肢はすべて不可能だった」
「ブラックホール戦争」は、「憎みあう敵同士の戦争ではなかった。実際には、主だった参戦者はみな友人たちだ。しかし、互いを深く尊敬してはいても、根本的に意見が一致しない人びとの間で交わされた熾烈で知的な戦いだった」。その「知的戦争の集大成」が、ホログラフィック原理だという。
ホログラフィック原理とは何か。つぎのように記している。
「普段経験している3次元の世界、つまり銀河、星、惑星、家、巨石、そして人びとで満たされた宇宙はホログラムである。すなわち宇宙は、遠く離れた2次元の面にコード化されたものから生じる画像なのだ。この新しい物理学の法則をホログラフィック原理という。それは「空間の領域の内部にある一切のものはその領域の境界面の情報だけで表せる」というものだ」
本書は、ブラックホールとは何か、ブラックホールの蒸発とは何か、情報とは何か、エントロピーとは何かを丁寧に解説し、また、一般相対性理論、量子力学、ひも理論のエッセンスを述べ、「ブラックホールに吸い込まれる情報の運命に関する20年以上の知的戦争」を語り尽くした一冊だ。付け加えれば、「反ド・ジッター空間(ADS)」のようなものも一般に向けて説明するという、とても充実した解説書だ。読み応えがある。
最後には、ブラックホールの地平線の性質に照らして、「宇宙の地平線」について考察している。「宇宙の地平線の性質はブラックホールの地平線の性質にとてもよく似ているように見える」と述べている。
この本を手に取るということは、著者の表現に乗って喩えるならば、私たち読者が、「ブラックホール戦争」の目撃者として〝知的戦場〟に降り立つということだろう。著者サスキンドは、そのような読者に、戦場を駆け抜けるための知的武器を、ひとつ、ふたつ、みっつ、……、と手渡していく。私たち読者は、ページをめくるたびに、知的装備を拡充させていく。この戦場から帰還するとき、読者の手元にはどれだけの知的武器が残っているだろうか。それは、人それぞれだろうが、たとえ、わずかの知的武器しか残らなかったとしても、この基本原理同士の戦いを目撃する価値はきっとある。
ひとこと
じっくりと読みたくなる本。約550ページの大著を読み進めるには、忍耐力が必要かもしれない。「ブラックホールの情報問題」に関心がある方はもちろん、ブラックホール、一般相対性理論、量子力学、超弦理論の一般向けの本を好んで読んできた方には、一読の価値がある本だと思う。