生物という〝複雑なもの〟はどのようにして存在するに至ったのか。リチャード・ドーキンスの見解を知りたい方におすすめの本
- 著 者:
- リチャード・ドーキンス
- 出版社:
- 早川書房
生物という〝複雑なもの〟はどのようにして存在するに至ったのか。
かつて、神学者ウィリアム・ペイリーは、『自然神学』(1802年に出版)のなかで、つぎのようなことを主張したそうだ。短くまとめると、こんな感じだ。
荒野を歩いているとき、石に足をぶつけて、その石がどうしてそこにあるのか、と問われたとする。「それはずっと以前からそこに転がっていたとしか考えようがない」と答えるだろう。だが、時計が一個落ちているのを見つけて、その時計がどうしてそこにあるのか、と問われたとする。そのときには、「その時計はずっとそこにあったのだろう」などという答えは思い浮かばない。
時計の歯車やバネは精密に作られていて、それらは複雑に組み立てられている。荒野で、時計のように複雑なものを見つけたら、それがどのようにして存在するに至ったかを知らないとしても、その複雑さゆえに、こう結論せざるをえないだろう。「その時計には製作者がいたはずである」。いつか、どこかに、「ある目的をもって時計を作った」考案者が存在したに違いない、と。
「自然の作品」にも、「時計にみられるあらゆる工夫、あらゆるデザイン表現」が見いだされる。(自然の作品は、時計よりも「測り知れないほど偉大で豊富である」)。「自然の作品について真剣に考究したならば」、時計のときと同様の結論に達するだろう。「自然の作品」すなわち生物には、その製作者が存在したはずだ、と。
このようなアナロジーで、神学者ウィリアム・ペイリーは、生物という〝複雑なもの〟をつくりだした「時計職人」すなわち神が存在する、と論じた。また、ペイリーは、望遠鏡と眼を比較し、望遠鏡にデザイナーがいるように、眼にもそのデザイナーがいると論じたという。
著者リチャード・ドーキンスは、こう述べる。「ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている」が、「みごとなまでに完全に間違っている」。「望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方ではあるものの、盲目の物理的な諸力なのだ」と。
「あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するもの」は、ダーウィンが発見した「自然淘汰」だ、とドーキンスは説く。そして、自然淘汰は「盲目の時計職人」だと喩えた。
つぎのように述べている。「本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く」。ところが、自然淘汰は「盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の時計職人なのだ」
ドーキンスの論じる「自然淘汰」とはどのようなものか。生物という〝複雑なもの〟はどのようにして存在するに至ったのか。進化に興味があるのなら、この本でドーキンスの説明を聞いてみる価値はきっとある。