眠っているとき、脳では凄いことが起きているーー眠りと夢と記憶の秘密
書籍情報
- 著 者:
- ペネロペ・ルイス
- 訳 者:
- 西田美緒子
- 出版社:
- インターシフト
- 出版年:
- 2015年12月
脳科学用語を交えながら、「睡眠と記憶」の関係について真摯に解説した一冊
まず、本書の構成を大まかに紹介したい。
眠っているとき、脳ではどんな凄いことが起きているのか。このことを語るための準備として、まずは睡眠の基本的な話題と、睡眠と記憶にまつわる脳科学の知識を伝える。(第1章から第4章まで)
第5章と第6章および第8章が、おそらく本書の中核だろう。(第7章は、おもに、「夢」にまつわる内容)
第5章は、おもに、「シナプス恒常性モデル」についての解説。第6章では、「睡眠中に記憶がどのように再生されるか、またそれが記憶にとってなぜ重要かを説明」する。そして第8章では、著者らが提唱している「抽象化のための情報オーバーラップ(iOtA)」というモデルについて解説する。
第9章と第10章は、下記で詳しく紹介したい。
第11章から第13章(3つの章を合わせて約40ページ)は、私は読み流したので章題のみ記載。第11章「眠りのパターン、IQ、睡眠障害」。第12章「記憶力を高め、学習を促進する方法」。第13章「快適睡眠を実現するガイド」。これらの章題のみに惹かれて購入するタイプの本ではないと思う。脳科学の用語がたくさん登場する本なので。
各章の最後には「まとめ」がある。
では、第9章と第10章の話題を紹介したい。
恐怖記憶は睡眠によって強化されるのか? それとも恐怖記憶は睡眠によって和らぐのか?
結論から記すと、神経科学者の意見は分かれているようだ。まず、その部分を紹介したい。
「……略……。意見の相違の理由が何であれ、神経科学者にとってはこの難問を解決することが不可欠だ。オーバーナイト・セラピーは、トラウマを経験した人は睡眠をとってトラウマの記憶から感情を切り離すべきだと勧めているのに対し、それに反対する考え方は、不快な印象が強化されないよう、同じトラウマの持ち主を眠らせないようにすべきだと勧めているからだ。……略……」
これは、第10章の結びの言葉。
本書の第9章と第10章では、それぞれの見解の違いを、脳内メカニズムを交えながら一般向けレベルで詳しく解説している。ひとことで言えば、この二つの章は「情動記憶」に関する内容だ。
情動記憶は「喜怒哀楽などの比較的急激に起きる一時的な感情を伴う記憶」、と本書には記されている。この情動記憶に関する主要な脳部位は、「扁桃体」と「海馬」だと言われている。
扁桃体は、大まかにいうと「恐怖検知器」と考えられるが、「ただし、怒りなどのほかの感情にも反応し、幸せな気分にさえ反応する」という。海馬は、「新しい記憶形成の絶対的な中心だ」
この扁桃体と海馬は、「感情を伴う出来事がその場で海馬に保存されているとき(覚醒中にほんとうに刺激的な経験をしているときなど)と、それをあとで思い出そうとしているとき、ともに力を合わせて働くことがわかっている」
おもしろいことに、「レム睡眠中」に、扁桃体と海馬のニューロンは「基本的に同時に発火」しており、「そのような状態は、覚醒中にはほんとうに刺激的な経験をしているあいだの脳でだけ見られる」という。
著者は、これが何を意味しているかを理解するのは難しいし、その研究はこれからだと記したうえで、自身の推測をつぎのように記している。
「扁桃体と海馬のこの緊密な連絡は情動記憶がレム睡眠中に再生されるときに起き、感覚を処理するために必要不可欠なのではないか、と私は推測している。これらの構造体のあいだで連絡が密になることによって情動記憶が優先的に強化され、多くの場合はその結果として扁桃体の反応が強まり、連結性が高まり、より思い出しやすくなる。これは睡眠後に感情的な出来事を思い出すとき、よく観察される状態だ」
また、つぎのようにも記している。
「情動記憶もふつうの記憶と同じように睡眠中に再活性化されて再生され、この再生が脳でのコード化の方法を変化させることで優先的な強化に役立っていると考えるのが妥当だろう」
このような考え方に基づけば、レム睡眠によって恐怖記憶は強化される、と言えることになるようだ。ところが、上述したように、これとは異なる意見がある。著者はこちらも詳しく記している。では、「オーバーナイト・セラピー仮説」とはどのようなものだろうか。
まず、恐怖に関するつぎの知見を紹介したい。「ノルエピネフリン」という神経伝達物質にまつわる知見だ。ノルエピネフリンによって、「恐怖に対する無意識の体の反応」の大部分がコントロールされているという。そして重要なことを、つぎのように記している。
「ノルエピネフリンがなければ、ほんとうに恐ろしい状況に陥っても、体に恐怖心を引き起こす反応は起きない。そしてここが大事なところだが、脳内のノルエピネフリンの濃度はレム睡眠中に最も低くなる。そのため、レム睡眠中に記憶が再生されるとき、それがどんなに恐ろしいものでも通常の体の反応を呼び起こさない」。「言い換えれば、レム睡眠中に恐ろしい出来事の夢を見ても、感情システムはいつものように反応できない」
このあとで、「オーバーナイト・セラピー仮説」についての説明。
「オーバーナイト・セラピー仮説は、この種の感情を伴わない再生によって、記憶の内容は強化されるかもしれないが、感情的な面はすっかり失われるはずだとする(十分な回数だけ再生されるとして)」
まだ、よくわからないと思うのではないだろうか?
つぎに、著者は、「記憶の再固定化」と呼ばれる概念を説明する。
本書では、記憶を「本」に喩えて丁寧に説明している。大まかに書いてしまうと、〝思い出す〟とは、本を書架から持ち出すようなものだという。持ち出された本には、(たとえば少し書き換えられたり破損したりなど)変更が加えられる可能性が生じる。本が戻されなかったり、間違ったところに戻されたりする可能性もある。つまり、本を戻すとは「能動的な処理」だという。
この喩えのポイントは二つで、一つは、「記憶は想起(検索)されると変わりやすくなること」。もう一つは、「もう一度保管するのは能動的な処理で、混乱する可能性があること」
この「記憶の再固定化」という概念を支持する証拠は非常に多いそうだ。
そして著者は、こう記す。「……略……記憶の再固定化はオーバーナイト・セラピーの概念に不足しているメカニズムも提供する――すなわち、関連のある体の反応を引き起こすことなく睡眠中に記憶を再活性化すれば、記憶から感情的な内容を取り除いて、本質的に記憶の恐怖を和らげることができるというものだ」
この考え方に基づけば、恐怖記憶はレム睡眠によって和らぐ、ということになるようだ。
「記憶の再固定化」という概念は、とても興味深い。じつは、臨床医がすでにPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療に、記憶の再固定化を使い始めているそうだ。この治療は、訳注によると、「EMDR[眼球運動による脱感作と再処理治療]」というらしい。「一部にはたった一回の治療で深刻なPTSDが完治した例もある」というのだから驚く。
この本には、オーバーナイト・セラピー理論に対する批判も記されている。
さて、最後にもう一度書くと、恐怖記憶は睡眠によって強化されるのか、それとも恐怖記憶は睡眠によって和らぐのか、この問いへの専門家の意見は現時点では分かれている。確実な科学的答えはまだない、と覚えておいたほうがよさそうだ。
ひとこと
(本書の中核だと思う)第5章、第6章、第8章も紹介しようと思っていたのだが、上記を書き終えた時点でかなり長くなったので断念した。でも、この三つの章もおもしろいので、簡単に紹介してみたい。
第5章では、徐波睡眠中にはシナプスが実際に弱まっている(シナプスのダウンスケーリング)という考え方が紹介される。全般的にシナプスをだんだんに弱める作用によって、弱い信号(価値のない部分)は失われ、信号で最も強い部分(おそらく最も重要な部分)が残る。
一方、第6章では、徐波睡眠中に記憶の再生の結果としてシナプスのごく一部が強化される、という考え方が紹介される。
シナプスが弱まる(第5章)と、シナプスが強化される(第6章)という、この矛盾する二つの過程は同時に起こりうるのか? 第8章では、著者らの提唱する「抽象化のための情報オーバーラップ(iOtA)」というモデルが論じられる。
「iOtA」は、「徐波睡眠中の記憶の再生を、同じ睡眠段階で起きるニューロン間のつながりのダウンスケーリング(シナプス恒常性とも呼ばれるもの――第5章を参照)と組み合わせることによって、これらの現象すべてを説明しようとしたものだ」という。
この「iOtA」モデルの説明がなされる第8章こそが、本書のハイライトだろう。