意識は傍観者であるーー脳の知られざる営み
書籍情報
- 著 者:
- デイヴィッド・イーグルマン
- 訳 者:
- 大田直子
- 出版社:
- 早川書房
- 出版年:
- 2012年4月
- 著 者:
- デイヴィッド・イーグルマン
- 訳 者:
- 大田直子
- 出版社:
- 早川書房
- 出版年:
- 2016年9月
私自身の中心は「私の意識」ではない。この見解を神経科学のさまざまな研究事例を織り交ぜて伝える
「私たちがやること、考えること、そして感じることの大半は、私たちの意識の支配下にはない」と本書は述べる。意識のあるこの「私」は、「脳内で生じているもののほんの小さなかけらにすぎない」と。「人の内面は脳の機能に左右されるが、脳は独自に仕事を仕切っている。その営みの大部分に意識はアクセス権をもっていない」という。本書は、神経科学のさまざまな研究事例を織り交ぜて、この主張を読者に伝えていく。
視覚は脳がつくりだす
まず、「自分が知覚する外界のものは、自分にはアクセス権のない脳の部分によってつくられていること」を解説する。とくに視覚の話題が多い。さまざまな錯視の事例、3歳で視力を失いその43年後に手術を受けて目が完全に機能するようになった男性の視覚について、ブレインポートと呼ばれる装置をつけて「舌で見る」男性の話など、多彩な話題が盛り込まれている。夢や幻覚と通常の視覚の違いは? そんな話題もある。
ループする脳の強み
脳の配線には「ループする」(専門用語で「再帰」)という特徴があるという。脳の配線は、たとえばA→B→Cというフィードフォワードだけでなく、C→B、C→A、B→Aというフィードバックもあるそうだ。つまり脳の信号は、低次から高次の脳領域に送られるだけでなく、高次から低次の脳領域にも送られる。本書はこのループする脳の強みとして「予測を立てる」ことをあげる。脳は予測し「外界についての内部モデル」をつくることができるという。この内部予測と感覚入力が比較され、予測がうまくいっているとき意識は必要とされない。しかし新しい状況が生じて予測が覆されると、意識が接続され、内部モデルが調整されるのだという。自転車に乗る事例など具体的な例をもとに語られている。
思考のウムヴェルト(思考の環世界)
同じ生態系に住んでいても、生物により知覚できる世界は異なっている。知覚できる世界は、その生物の生体内プロセスによって区切られている。かつて生物学者フォン・ユクスキュルは、これを環世界(ウムヴェルト)と呼んだ。この環世界は知覚に限らないと本書はいう。思考にも「思考のウムヴェルト」があるのだと。
脳のなかには「大勢がいる」
意識の水面下では、「私の行動」という一つの出力チャネルをめぐり、神経細胞の小集団が争っている。これは議会制民主主義にたとえられている。同じ問題について、各政党が異なる意見をもつように、脳のなかでも同じ問題について「大勢の重複するエキスパート」が争っている。状況により、その争いの結果は異なることがある。そのとき私たちは、同じ問題に対して異なるふるまいをすることになる。脳のなかには「大勢がいる」という観点から、葛藤や秘密や本性などを論じている。
犯罪の「有責性」をどう考えるのか
本書が述べるように、私の思考や行動の大半が、意識の及ばない神経回路により自動的に決定されるのなら、私たちに自由意志はあるのだろうか。犯罪の「有責性」をどう考えるべきなのかも論じられている。
心を理解するうえで、還元主義アプローチは万全ではない
最終章で著者はこう述べる。「自分という人間をつくるメカニズムは単純ではなく、要素とパーツから心を組み立てる方法を科学が理解するにはいたっていないことを強調しておきたい。心と生体内プロセスがつながっているのはまちがいない――が、そのつながり方を純粋な還元主義アプローチで理解できる望みはない」と。量子力学と意識とのあいだに関係が「ありうる」(あると断言しているのではなく)といった指摘もなされている。
ひとこと
本書の目次の前に、ブレーズ・パスカル『パンセ』からの引用がある。ここにも引用しておきたい。「人間は自分が立ち現われた無も、自分がのみ込まれる無限も、等しく見ることができない ――ブレーズ・パスカル『パンセ』」
私は単行本を読んでこの書評を書いた。文庫版は手にとっていないが、章題が一緒なので、たぶん内容もほぼ同じだと思う。