悪魔に仕える牧師ーーなぜ科学は「神」を必要としないのか
書籍情報
- 著 者:
- リチャード・ドーキンス
- 訳 者:
- 垂水雄二
- 出版社:
- 早川書房
- 出版年:
- 2004年4月
リチャード・ドーキンスの初のエッセイ集。ドーキンスの3つの顔があらわれている一冊
本書は、著者ドーキンスが25年の間に発表したもの(序文、書評、哀悼の辞、ほか/未発表のものもある)を、編集者がセレクトして、七つの章にまとめたもの。各章には、著者ドーキンスによる2〜5ページの前置きがある。
この本にあらわれているドーキンスの顔は、大別すれば3つだろうか。ダーウィニズムの語り手としての顔、科学啓蒙家としての顔、交友関係などから垣間見える素顔。もちろん、これらの顔は、はっきりと分かれているのではなく、混じり合っている。そして、宗教や疑似科学を批判する表情となっていることも多い。
私たちは、ドーキンスの他の著作で、いつも、ダーウィニズムの語り手としての顔にお目にかかっている。ここでは、残りの二つの顔に光をあてて、ご紹介したい。
科学啓蒙家としての顔。「透明な真実と水晶玉」というエッセイについて
このエッセイの展開が魅力的だったので、その構成を辿るかたちで、ご紹介してみたい。
まず、水晶に関して、「何も知らない人間を騙せるほど十分に「科学的に」聞こえる」言葉の例をあげて、つぎのように述べる。「このような疑似科学的な妄言が現代文化の一部として大きな顔をしているのは憂慮すべきことである」と。そして、「ここでは水晶に例を限定したが」、ほかにも「まったく同じことが言える」と述べ、それらを羅列する。
もし人々が、占星術や水晶ヒーリングなどを信じたいのなら、「なぜ好きにさせておかないのか?」。ドーキンスはこう述べる。「彼らがどんなに多くのことを見逃しているかを考えると、あまりにも悲しくなる。本当の科学には、もっともっとたくさんの驚きがあるのに」と。
そして、「結晶」について説明していく。「水晶やダイアモンドなどの結晶では、原子は厳密な繰り返しの配列をとっている」。こう始めて、「パレード中の兵士」や「巨大な魚の群れ」にたとえながら解説を続ける。こんな感じだ。
「ダイアモンドの原子――すべて同じ炭素原子――は、パレード中の兵士のように整列しているが、彼らの整列の精密さは、最高に訓練された近衛連隊をもはるかに凌駕するものであり、……」
つぎに、黒鉛(鉛筆の「芯」)の話へ。「炭素原子はほかの結晶格子配列をとることもできる。軍隊のアナロジーに戻れば、彼らは別の練兵規則を採用することもできる。黒鉛(鉛筆の「芯」)も炭素であるが、それは明らかに、ダイアモンドにはまるで似ていない」。「黒鉛では、…」と解説が続く。
さらに、「バックミンスターフラーレン」(「愛着を込めてバッキーボールと呼ばれている」)の話へと展開する。「六〇個の炭素からなるこのエレガントな球体は、二〇個の正六角形が一二個の正五角形とつながってできていた」。これにまつわる解説ののちに、炭素原子についてつぎのように記す。
「炭素原子は結合して、理論的には魅惑的な各種の結晶に満ちあふれたアラジンの洞窟[イギリスのトリーク・クリフ鍾乳洞にある]を形成することができるのである。これは、炭素を生命の根元的な元素たらしめている特別な性質のもう一つの側面である」
このあとに、他の結晶についての説明がある。「水晶の結晶では、炭素の代わりをしているのは、珪素と酸素である」。「食塩の場合には、…」と続く。
さらに、このような話を披露する。「すべての結晶は、局所的に働く法則のもとで「自己形成」していく。(中略)この自己形成の原則は、生きている構造にまで及んでいる」。ここからDNAの話へと展開する。
そして、「疑似科学的な妄言」への批判をすこし織り交ぜてから、つぎのように述べる。
「結晶は、神秘的な、慈しむエネルギーによって振動したりはしない。しかし、もっと厳密で、もっと興味深い意味において、それは確かに振動する。ある種の結晶は、全体に電荷をもっていて、結晶を物理的に変形させるときにそれが変化する。この「圧電」効果は、…」と説明が続く。
「結晶について最後にもう一つだけ話しておきたいのだが、それは、あらゆる話のなかで最も魅惑的なものかもしれない」。こう語りはじめて、つぎのような疑問を呈する。
「……結晶の内部のほとんどすべては空っぽの空間である」。「しかし、固体がほとんど空っぽの空間だとすれば、私たちにはなぜそれが空っぽの空間に見えないのだろう? なぜダイアモンドは、脆くて、穴だらけなものではなく、硬くて、実質があるように感じるのだろうか?」
これに対してのドーキンスの答えは、つぎのように始まる。「その答えは私たち自身の進化のなかにある」と。ここが、このエッセイのクライマックスだ。
最後はこう結ぶ。「結晶への科学的なアプローチが、ニューエイジの教祖や超常現象の伝道者たちの最も奔放な夢よりも、より啓発的で、より気持ちを高めるものであり、より奇妙なものでさえあることを、もしあなたに説得できたとしたら、私は成功したことになるだろう。教祖や伝道者たちの夢やヴィジョンはとうてい奔放などと呼べるものではないというのが、率直な真実である。科学的な基準に照らして、そうなのだ」
交友関係などから垣間見える素顔。「あるダーウィン主義の重鎮との未完のやりとり」
本書には、著者ドーキンスの素顔が垣間見えるエピソードがいくつも盛り込まれている。
たとえば、「ヒーローたちと祖先」は、そのような旅行記だ。ドーキンスは、章の前置きでこの作品をつぎのように紹介している。「この章の最後は、旅行記で、ここでも、人類の祖先の故郷としてのアフリカと、私の個人的な誕生の地という二つのテーマがとりあげられ、そのあいだをぬって、自伝的な物語と個人的なインスピレーションが付け加えられている」と。
また、ダグラス・アダムズへの「哀悼の辞」と「頌徳の辞」、および、「W・D・ハミルトンへの頌徳の辞」でも、ドーキンスの素顔が垣間見える。
ここでは、本書のなかでもっとも印象深かった、「あるダーウィン主義の重鎮との未完のやりとり」をご紹介したい。
あるダーウィン主義の重鎮とは、故スティーヴン・ジェイ・グールドのことだ。グールドといえば、一般にもよく知られており、ドーキンスとの論争は有名だ。本書では、グールドにひとつの章が割かれており、そこには、グールドの著作に対するいくつかの書評が収められている。その章の最後にあるのが、「あるダーウィン主義の重鎮との未完のやりとり」だ。
「次の電子メールによるやりとりは完了することがなく、今や、悲しいことに、絶対に完了することができなくなってしまった」。このように始まり、二人の交わしたメール内容が記される、というふうに続く。
「ダーウィン主義」のなかでは、二人のあいだには意見の相違があり、学問的な論争を繰り広げた。だが、創造論者に対しては、二人のあいだには「協調関係」があった。
二人の名を連ねた文章が記されたあとで、ドーキンスはこう綴る。「残念ながら、スティーヴはこの手紙に手を入れるところまで手が回らなかった。そのため、この手紙は彼の巧みなタッチによって添えられたはずの文体の華麗さを欠いている……」と。
相手の学問的な主張は批判しても、相手の人格や才能には賞賛さえ贈り、そして手を携えることさえある。才能ある賢明な二人の、微妙な距離を保った交流を伝える「未完のやりとり」は、二人のあいだにあった「協調関係」を浮かび上がらせると同時に、人と人とのつながり方には多様なかたちがあることをも浮き彫りにしている。
ひとこと
上記のほかに、「公式の伝記『オーンドル校のサンダーソン』」の話を紹介しているエッセイも読ませる。これは、教育のあり方について論じたエッセイだ。
書名となった「悪魔に仕える牧師」とは、ダーウィンが友人のフッカーに宛てた手紙のなかで使った言葉だそうだ。この「悪魔に仕える牧師」というタイトルのエッセイが冒頭に置かれている。
エッセイという言葉には、〝気軽に読める〟という印象があるかもしれない。しかし本書には、〝気軽に〟とはいえないようなもの(エッセイ集ではないドーキンスの本のテイストとでもいうようなもの)も含まれている。