生命と時間のあいだ
書籍情報
- 著 者:
- 福岡伸一
- 出版社:
- 新潮社
- 出版年:
- 2025年7月
福岡伸一の生命論・文学論・時間論に触れられるエッセイ集(長めのエッセイが多い)
「生命にとって時間とは何か」と題した本書の導入部では、まず、「時間のロゴス的理解、ミンコフスキー的解釈」をわかりやすく簡潔に説明して、ゼノンのパラドクスへと展開し、「近代科学による生命の理解(あるいは世界理解)」について、「パラパラ漫画」のたとえを交えて述べていく。そして、「そこにはほんとうの意味の時間、生命の中を流れている動的な時間はない」、しかし私たちは、そのような世界の見方から脱出することができないでいる、といった見解を示す。
このような内容の導入から、本書について以下のように記している。
「本書では、サイエンスの言葉では表現しえない「生命の時間」について、フィクションやアートの世界での表現を紹介しながら伝えていきたいと思う。客観的な時間の存在に対するアンチテーゼとしての時間論である。」
この本には、画家、作家、音楽家など、さまざまな人物とその作品が登場する。それらについて、生命と時間の視点を織り込みながら論考している。
なお、エッセイの長さはまちまちだが、長めのエッセイが多い。
Ⅰ部には、福岡伸一の「時間論」など、5つのエッセイがある
冒頭のエッセイ「私の時間論」では、まず、普通とはちょっと違ったパラパラ漫画、その一枚一枚の絵に「厚み」(空間的な広がり)があるパラパラ漫画のたとえを用いて、「生命が感じている時間」を表現する。ここから、17世紀の画家ヨハネス・フェルメールの作品へと展開し、最後に、エントロピー増大にも触れながら、時間について論じる。
つぎのエッセイ「渦巻文様とダ・ヴィンチ」では、時間の視点から渦巻文様について語ることからはじめ、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した「コーデックス(手稿)」をもとに、その実像に迫っていく。
3つめのエッセイ「ダーウィンはビーグル号に乗って」では、万博の話から説きおこしてチャールズ・ダーウィンと『ビーグル号航海記』について語る。ここでは、生物の進化という観点から、「時間」に触れている。
4つめのエッセイ「ガリレオ・ガリレイの踏み台」では、オリオン座のベテルギウスの話題から超新星について語り、1604年の超新星とガリレオ・ガリレイのエピソードへと展開し、17世紀の「科学革命」と微分積分について述べていく。そして、著者はつぎのように記す。
「私には、微分積分こそが、この科学革命の時代の掉尾[ルビ:ちょうび]を飾る、もっとも完成度の高いロゴス中のロゴスだったと思える。」
こう続ける。
「それはとらえどころのない「時間」という概念を、ものの見事にロゴスの中に閉じ込めることに成功したといえるからである。」
この記述からさらに、「文化史としての微分積分の意味」を述べていく。
5つめのエッセイ「レーウェンフックの観察手記が伝えること」では、著者の少年時代のエピソードを綴り、「顕微鏡の始祖、微生物の最初の発見者」アントニ・レーウェンフックの人物像と業績を簡潔に描き出す。
さらに、レーウェンフックが生まれた1632年に、同じデルフトのごく近くで、ヨハネス・フェルメールが生まれたことを述べ、レーウェンフックの顕微鏡観察手記にまつわる著者の〝仮説〟を披露している。
文学を中心にさまざまな作品を読み解きながら、時間、生命、自己、記憶について持論を展開する
多彩な人物と作品が取り上げられている。
Ⅱ部の冒頭のエッセイ「坂本龍一の時間論、または記憶」では、著者が直接耳にした言葉など坂本龍一とのエピソードを織り込みながら、坂本龍一の時間観を描きだしている。それは、著者の時間観とも重なっているようだ。
他に、Ⅱ部には、手塚󠄁治虫(本書で「塚󠄁」は旧字表記)の『火の鳥』、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーの『生命とは何か?』、村上春樹の『街とその不確かな壁』、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』が登場する。
Ⅲ部に登場するのは、丸谷才一の『笹まくら』、安部公房の『方舟さくら丸』、津島佑子の『ジャッカ・ドフニ』、ヒュー・ロフティングのドリトル先生シリーズ(『ドリトル先生航海記』など)、バージニア・リー・バートンの『せいめいのれきし』、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』。
こうした作品を読み解きながら、時間、生命、自己、記憶について持論を展開している。とくに福岡伸一の生命論である動的平衡論は繰り返し論じている。
上述した作品のなかで、とくに、Ⅱ部の『火の鳥』と『街とその不確かな壁』の考察には力が注がれている。また、Ⅲ部の『笹まくら』と『ジャッカ・ドフニ』については、物語の内容に深入りしながら丁寧に紹介されている。
感想・ひとこと
読書の幅を広げてくれる本。