境界で踊る生命の哲学ーー皮膚感覚から意識、言語、創造まで
書籍情報
- 著 者:
- 傳田光洋
- 出版社:
- 東京大学出版会
- 出版年:
- 2025年3月
「境界」の観点から、人間とその社会を考察する
著者の傳田光洋は、学生時代に水の化学熱力学を専攻し、その後、皮膚科学の研究者になるという異色の経歴をもつ。オリジナリティーがある研究者として、海外で評価を得ている。
皮膚科学を超えて、神経科学、物理、化学、数学の研究者とのつき合いがあり、「その結果、物理化学や数学の論文にも名前が入るようになり、はては心理学や進化論に関わる文章まで書くようになった。」
本書では、自身の研究のみならず多様な研究報告を示しながら、広義の皮膚によって象徴される「境界」の観点から、人間とその社会を考察している。「科学や芸術の創造のしくみ」について、自身の仮説を述べているところもおもしろい。
「場」の概念をもとに、生命現象を論じる
著者の「人生を変えた」という、皮膚のバリア機能に関するピーター・イライアスの研究室の論文を簡潔に説明し、その結論をこうまとめる。「つまり皮膚のバリア機能は、常に自分の状態をモニターして、その機能を維持している」と。
そして頭の中で、皮膚のバリア維持機構と、かつてハロルド・サクストン・バーが提唱した「生命場」という概念とが結びついたことを述べて、つぎのように記している。
「つまり、動物の身体の組織、それは脚だったり皮膚だったりするのだが、そこには本来あるべき「状態」があって、すなわち「場」が存在していて、ダメージを受けると、その「場」に沿って自動的に戻るしくみがあるということだ。」
イエール大学の解剖学の教授だったハロルド・サクストン・バー(Harold Saxton Burr, 1889-1973)の主たる業績は、「生物、およびその表面や周囲の電位差測定」の研究。
バーは「カエルの坐骨神経系の電位差測定を行っているが」、「その後、1952年、イギリスの生理学者、アラン・ロイド・ホジキンとアンドリュー・フィールディング・ハクスリーはイカの神経軸索の電位差測定から神経系の電位を記述する数理モデルを提案し、1963年、ノーベル生理学・医学賞を受賞している。」(漢数字は算用数字にして引用)。「バーは現代神経科学の先駆者だったとも言える」と述べている。
著者は、皮膚のバリア機能に関する自身の研究や、「バーの後継者と言える」研究をいくつか紹介していく。その一つが、タフツ大学のマイケル・レヴィンによる、プラナリアという動物を使った研究だ。
本書では、その研究内容を丁寧に説明しているが、このレビューではごく簡単に紹介する。
プラナリアは再生力が強い。プラナリアを頭と尾に切断すると、その両方で残りの部分が再生され、それぞれが一匹のプラナリアに、つまり二匹になる。そして、そのどちらもが、切断される前の「記憶」を持っていたそうだ。
さらに興味深いのは、三つに切断したときだ。頭も尾もない「真ん中の部分」がどう再生されるのか。それは、電位によって変わるという。つぎのように説明されている。
「次に、三つに切断したプラナリアで、真ん中の部分ーー頭も尾もない場所だがーーの両端の電位を低くすると、両端が尾の個体ができる。片方の電位を高くし、もう一方を低くすると電位が高いほうが頭、低いほうが尾の個体になり、両端の電位を高くすると、両端に頭がある個体になった。」
著者は、つぎのような見解を示している。「これらの実験結果は、生物の身体を構築する、その基礎に電気的な場が重要であり、さらには学習、記憶、というような現象にもそれが関わっていることを示しているように思える」と。
上述したのは、序章に登場する話題。本書では、「場」という概念を軸にして、生命現象、人間の意識や言語などを論じている。
外界と境界と内界
この世界にある場は、三つに区分できるという。「異なる場が接する境界と、境界の外の外界、境界で覆われた内界だ。」
生命では、広義の皮膚が境界となる。
たとえば、皮膚感覚の場合、「指先でなにかに触れる、その際、触れたものの形についての情報処理は、脊髄に至る前、おそらく皮膚の中で行われていることが示唆されている。」
このような、いくつかの研究成果を示して、境界は環境の情報をただ受容するだけでなく、ある程度の情報処理を行っており、「感覚の境界の周辺で処理された情報だけを、脳は受け取っている」という見解を述べている。「つまり、内界の中枢である脳は、外界で起きている出来事そのものは知らない」という。
本書では、このような外界と境界と内界の関係を、人間社会にもあてはめて論じている。
また、「人間の内界である脳、そこに生じる虚構」について、人間の意識の成り立ちについて、著者の主張が展開される。
感想・ひとこと
「場」の概念をもとに生命現象を論じているところに興味をそそられた。生命とは何か、人間とは何か、そんな問いを科学的に見つめる多様な視点が得られる本。