[組本・第1回]ヴェネツィア。インクラビリ。コルティジャーネ

『世界は分けてもわからない』(福岡伸一)と『地図のない道』(須賀敦子)

科学本と他の本を組み合わせて読もう、という[組本]レビューの第1回。

今回の科学本は、『世界は分けてもわからない』(福岡伸一/講談社)。この本の「第2章 ヴェネツィア、二〇〇二年六月」とあわせて読みたいのが、『地図のない道』(須賀敦子/新潮社)のなかの「ザッテレの河岸で」という作品。

『世界は分けてもわからない』のなかで福岡伸一は、須賀敦子について語り、彼女の美しい文章を称え、『地図のない道』と題された彼女の最後の本が好きだと述べた。そして、その本のなかの「ザッテレの河岸で」という作品を紹介している。それを読んで私は、この作品を読みたくなった。その紹介のところをすこし長いが引用したい。

「ザッテレとは筏という意味で、ヴェネツィア島のはずれジュデッカ大運河に面した船着場一帯のことをさす。イタリアの文学と詩を愛した須賀は、何度もヴェネツィアを訪れていた。網目のように入り組んだこの街の水路や小径にはその入り口の壁に小さく名称が示されている。あるときザッテレの河岸を散策している折、彼女はふとインクラビリと名づけられた水路があることに気づく。インクラビリ。英語に直せば、incurable不治の病という意味だ。なおる見込みのない人たちの水路。奇妙すぎる地名に彼女はおもわず笑った。「なんだか自分のことをいわれてるみたいだ」と。しばらく後、この地名のことが心の隅に残っていた彼女はある記録を発見して驚く。ここには、重い歴史の暗がりが宿っていたのだ」

この作品紹介は、まだ続く。コルティジャーネと呼ばれ、ふつう「高級娼婦」と訳される女性たちのこと、水路にインクラビリという名がつけられた理由、須賀敦子がヴィットーレ・カルパッチョの絵画「コルティジャーネ」を見に行くことを述べている。そして福岡伸一は、カルパッチョ作「コルティジャーネ」にまつわる謎解きをしていく。「でも須賀さん、この絵にはもうひとつ隠された秘密があったのです」と、今は亡き須賀に語りかけたりしながら。

福岡伸一は、「国際トリプトファン研究会」に参加するために、イタリア北東部の街パドヴァへ行き、そこからヴェネツィアへ向かった。「須賀敦子のヴェネツィア」へ。当時、「自分と自分の研究に倦んでいた」福岡は、「彼女の歩いた道を彼女が歩いたように歩いてみたかった。彼女が考えたように、自らの来し方を考えてみたかった」

「ザッテレの河岸で」のなかで、須賀敦子はこう書いたのだった。「なおる見込みのない人たちの水路。なんだか自分のことをいわれてるみたいだった」と。そのあと須賀はこう書き続けている。「インクラビリという、冗談では済ませられない言葉の重さが、胸を衝いた」。須賀は、水路の名を読みあげて、一緒に散歩をしている友人の注意をうながす。「どういうことなの、これは」と。友人は、「ああ、むかしここにそういう名の病院があったのよ。それだけ」と、なんでもないというふうに言った。

そのザッテレの河岸を散歩した日から二年後、須賀敦子は、《ヴェネツィアのコルティジャーネ》というテーマの展覧会に行く。そのあと、須賀がいうところの「知識は連なってやってくる」という偶然があり、彼女はコルティジャーネに深入りしていく。

時が経ち、須賀敦子は、展覧会のカタログを探し求めることになる。何軒かの書店に行き、いくつかの電話をかけ、ようやく入手した須賀は、「ずっしりと重いカタログを胸のうえにひろげて読みふけった」。その最後の何ページかに、「《なおる見込みのない人たちのための病院》の設計図や設立の意図や寄付に関する手紙などが載っていた」。須賀は、「いったい、どんな建物なのだろう」と思う。「せめて建物の内部を見ておきたかった」。彼女は、それを探索することにした。

須賀敦子は、さんざん歩いた。しかし、建物の入口は見つからなかった。そして彼女は、もういちどザッテレの河岸に出る。ある地点まで行って河岸に立つと、「対岸のレデントーレ教会がほぼ真正面に望めた」。彼女がヴェネツィアでもっとも愛している風景だ。「思いがけなく、ひとつの考えに私はかぎりなく慰められていた」と須賀は綴る。そして、その考えを最後に〝描いた〟

それは一枚の〝絵〟を眺めているようだった。そこには、言葉があるというより、16世紀ヴェネツィアの風景画があった。娼婦たちのいる風景。その〝絵〟には、〝慰撫〟〝救い〟という率直なタイトルがきっと似合う。あるいは、この詩情あふれる最後にあわせて、〝レデントーレの鐘〟とすこし飾ってみるのも悪くないかもしれない。このレビューを書きながらそんなことを思ったのだが、読み終えた直後の私の気分は、重く暗く、それでいて清澄、清冽と形容したい風景が広がっている、というような奇妙なものだった。

初投稿日:2015年12月01日

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